かつて5,000mで16分を切ることが精一杯だった高校生が、一般入試を経た大学最終学年で迎えた箱根駅伝予選会で、個人順位二桁でゴールラインを駆け抜けた。
いまでは関東学生連合へのオファーも期待されそうな好成績ではあったが、選抜チームの編成が始まったのは、彼が卒業した2年後のことだった。
しかし彼は、箱根に出られなかったことを悔やんでいないし、むしろ学生最後のレースで最高の走りができたことを誇りに思い、社会に出て行った。
人生とは、そんなものなのだろう。
うまくいくときもあれば、そうではないときもある。
うまくいかないな、と思っていた経験こそ、その後に生きる経験だったりもする。
池井戸潤という作家は、そんな人間ドラマの悲喜こもごもを描いてくれる、私が大好きな作家の一人だ。
池井戸潤といえば、「空飛ぶタイヤ」など、実話をモデルにした大企業の暗部を滑稽に暴いた社会派作品から、ピンチとチャンスのジェットコースターのような「半沢直樹」シリーズをはじめ、従来にはなかった視点で、サラリーマンの悲哀をリアルに描き出してくれる、傑出の作家だ。
とりわけ、陸上競技ファンの私にとっては、革命的なランニングシューズを開発し、大企業ばかりのマーケットへ挑戦する「陸王」は、テクノロジーの進化が支える、現代のランニング業界をリアルに伝えてくれる、記憶に残る小説だ。
そんな著者が、今度は「箱根駅伝」を描くというから驚かされた。
箱根駅伝を舞台にした小説といえば、三浦しをんの「風が強く吹いている」をはじめ群雄割拠で、とりわけ学生連合といえば、堂場瞬一の「チーム」が先手を打っており、二番煎じのそしりが免れないのではないかと懸念していた。
しかしそんな杞憂を見事にぶち壊してくれるのが、著者の真骨頂だろう。
上下巻で700ページを超える長編作ながら、上巻では、予選会から本戦までのチームの混乱を描き、下巻では、一章一区間で各選手の生き様にクローズアップし、多数に上る登場人物それぞれに、個性を生み出してくれる。
そして本書の真骨頂は、ランナーだけに焦点を当てるのではなく、「箱根駅伝」というキラーコンテンツを生み出した、テレビ局にもスポットライトを当てていることだ。
順位も記録も残らない連合チームの意義とはなんなのか?
選手や監督だけではなく、取材するテレビ局のスタッフの葛藤を伝え、視聴率を稼ぐことこそ正義だと思い込んでいた一部の関係者の考えが、箱根駅伝中継を通じて変化していく。
誰も期待していなかったチームの躍進は、あの名セリフ「倍返し」に勝るとも劣らない爽快感に満ち、心地よい読後感に包まれる。
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