数年前に海外駐在していた時期に、「半沢直樹」というテレビドラマを知人に録画してもらい、DVDを送ってもらうことが非常に楽しみだった。
それだけではない。著者が同作品をきっかけに一躍その名が知られる以前に、「オレたちバブル入行組」をはじめ、著者の小説は片っ端から読み漁り、駐在先にも持参し幾度となく読み返していたほど、私は著者の大ファンだ。
ちなみに、同じ頃に夢中で読んでいた作家が「沈まぬ太陽」をはじめとした山崎豊子だが、悲壮感が漂い、真剣に考えさせられることが多い山崎の作品に対し、池井戸の作品はピンチとチャンスのジェットコースターのような痛快ストーリーが愉快で、異国で生活するストレスを洗い流してくれる、数少ないエンターテインメントだった。
それほど大好きな作家のひとりである池井戸が、今回はランニングシューズをテーマにした小説を出版したという。
ストーリーは、業績がジリ貧の老舗足袋業者である「こはぜ屋」が、会社存続のためにランニング業界へ挑戦するところから始まる。
「裸足感覚」というコンセプトはユニークだが、実績は皆無で知名度は無い。もちろん技術や経験も無い。なによりも開発に投じる資金が無い。
また、身内同然であるはずの経理担当の古参役員は猛反対し、銀行からの支援も得られそうにない。そんな逆境のなかで、四代目社長の宮沢絋一はわずかな可能性を信じて新規事業参入を決意する。
いまいかに多くのランナーがいて、同時にいかに多くの故障者がいるのか。なぜ故障するのか、人間本来の走り方とは果たしてどういうものなのか。それに合うシューズとは何なのか−。「ランニングシューズ業界に殴り込みをかけたいんです」 (P192)と、ソール新素材の特許を有するキーマン・飯山晴之に対して熱く語る宮沢の信念には、同じランナーとして共感を禁じ得ない。
そうは言っても、もし自分がシューズを選ぶとしたら、無名の新参メーカーを候補に挙げることができるだろうか?
素晴らしい製品であっても、まずは消費者の目に留まらなければ買ってもらえない。
そんな折、茂木裕人というひとりの選手の走りが宮沢の目に飛び込んできた。
いまは故障がちな実業団選手だが、学生駅伝で活躍し、鳴り物入りで入社した彼には、メガサプライヤーであるアトランティスがスポンサーについている。
大手の看板を笠に着た彼らから見下され、罵詈雑言を浴びせられてもなお、粘り強く茂木にアピールを続けていくなかで、宮沢らの熱意に惚れた村野尊彦というシューフィッターが「チームこはぜ屋」に参入して以降、がぜん面白くなってくる。
村野は、元アシックスの三村仁司をモデルにしたかのような、ランニングシューズの達人で、アトランティスの利益至上主義に嫌気をさした村野との出会いが、徐々に「こはぜ屋」のピンチを救っていく流れは運命的だ。
だが、このままハッピーエンドを迎えさせないところが池井戸の真骨頂だ。
それはぜひ本書を読んで頂き、見事なストーリー展開と、爽快な読後感を存分に味わっていただきたい。
そして本書の特筆すべきは、小説としての高い完成度だけではなく、陸上競技関係者の琴線に触れるセリフが数多く登場する点だ。
細かいことを言えば、長距離競技では「オン・ユア・マークス 」の後に「セット (P307)」は入らない、などとツッコミを入れたい箇所はあるものの、一方で茂木が復活を期すマラソンレースでのシーンでは、ハイペースで先導する選手から離されていく茂木を心配そうに見る仲間に対し、村野が「安定した走りだけじゃなく、彼が長距離向きだと思うのは、読解力にある。つまり、レースの展開を読み解く力だよ (P570)」と諭すように語る姿は、まるでベテランのマラソンコーチのように深みのあるセリフだ。
そういえば、日本のマラソンの父とも呼ばれた金栗四三は、マラソン足袋で当時世界トップクラスの成績を収めていた。近年は踵の厚いシューズが主流となっているが、ミッドフットやフォアフット着地のほうが人間本来の走り方ではないかと見直されつつある。
そんなディープな話題も自然とストーリーに溶け込ませながら、個性豊かな登場人物が躍動する本書は、池井戸ファンだけではなく、陸上競技を愛する読者の期待を裏切らない傑作だ。
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