著者 |
沢木耕太郎 |
出版社 |
朝日新聞社 |
出版年月 |
2004年1月 |
価格 |
\1,600 |
入手場所 |
平安堂書店 |
書評掲載 |
2004年1月 |
評 |
★★★☆☆ |
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時期外れとも思える2大会前のオリンピック感想紀を、アテネオリンピックを控えた今、なぜ出版する必要があるのだろう。そんな謎を解いてみたいという好奇心と、あの「オリンピア-ナチスの森で」の感動をもう一度味わいたいという期待に胸膨らませながらページをめくっていった。
本作の舞台は、1996年・アトランタオリンピック。オリンピックが近代オリンピックとして復活して、ちょうど100年目にあたる節目の大会であった。 近代オリンピックとはなんなのかという疑問の答えを探しているかのように、オリンピック発祥の地−オリンピアを尋ねるところから序章は始まる。 オリーブの冠と名誉だけが勝者に対する褒賞だった古代オリンピックも、やがて賞品、賞金や様々な特権を得ることを目的に出場するプロ選手が現れはじめ、「内部から腐って崩壊した」ように、近代オリンピックも崩壊の道を同様にたどっていると、厳しい警鐘を鳴らしている。 巨大化の一途を歩み、腹黒い欲望ばかりが頭をもたげる商業主義の象徴と化してしまった近代オリンピック。その節目となるアトランタで、オリンピックはスポーツゲームからマネーゲームの世界大会へと変貌しているようにしか著者の目には映らなかったのかもしれない。
村上春樹さんの「Sydney!」も同様であるが、作家の観るオリンピックというのは、とても醒めている。しかし、彼らの文章を読んでいると、確かに我々はオリンピックに踊らされているだけなのかもしれないと思えてくる。
NBAやプロテニス選手が、我が物顔で金メダルをさらっていく様に違和感を覚える点については、私も同感である。 しかし私には、この本の内容に共感できない点も多かった。 特に、「有森裕子選手が銅メダルでウィニングウォークすることに対して苛立ちを覚えた 」という記述に対しては、反発を感じたと同時に、彼はスポーツの感動を味わうことのできない“作家という名の職業人”なのだと落胆せざるを得なかった。
誤字も多く、非常に目障りに感じる(P273に「ペドロサ 」と「ペドロソ 」が混在。P333に「大屋正喜 (→正しくは「大家正喜」)。 更に、当時のIOC会長を「サラマンチ 」と表記している点にも非常に違和感を感じる。アルファベットのスペルは「Samalanchi」であり、どの邦文を見ても「サマランチ」という表記になっている。 内容について反発を感じることは、個人の哲学の問題に過ぎないが、出筆から出版まで8年も熟成させた割には、おそまつな仕上がりで、期待を裏切られた。
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