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円谷幸吉 命の手紙

円谷幸吉 命の手紙
著者
出版社 文藝春秋
出版年月 2019年10月
価格 1,400円
入手場所 くまざわ書店
書評掲載 2019年11月
★★★★☆

 マラソン前日本記録保持者である設楽悠太が語ったとされる五輪切符よりも1億円の方が欲しい。そっちが優先。日本経済新聞 2019/11/4付)。
 彼らしい奔放なコメントだが、本書を読み始めたばかりの報道だっただけに、つくづく時代は変わったものだと感じてしまった。
 そう、今年のNHK大河ドラマ「いだてん」に描かれているように、かつてオリンピックは国の威信をかけた戦いであり、選手は国民の期待を一身に背負い、命を懸けていたといっても過言ではない。
 日本人の多くが、その犠牲者としてまず頭に浮かべてしまうのは、この人物ではないだろうか?

 1964年の東京オリンピックで陸上競技悲願のメダルを獲得し、そのわずか3年後に自ら命を絶った円谷幸吉は、オリンピックの重圧に苦しみ、追い詰められた末の自害だったと伝えられている。
 だが本当にそれだけが原因なのだろうか?
 そう疑問に思った著者は、円谷家の親族や親交が深かった知人へしぶとい取材を続け、偶然が重なりながらも、本人の肉筆による大量の手紙に触れる機会に恵まれ、予期せぬ展開に、わたしは目に見えない力が働いたのを感じた(P8)という。
 その手紙の数たるや200通以上。
 これまで、死に至る経緯は謎に包まれていたのだが、著者は膨大な文書を通じて、当時彼が感じていた心情をつまびらかにし、若くして自刃したメダリストの半生を今に伝えてくれる貴重なルポだ。

 言うまでもなく、幸吉の文としては、「遺書」があまりにも有名だが、本書の特筆すべきは、それ以外の貴重な手紙も丁寧に読み解きながら、当時の心境を現代に蘇らせている点にある。
 東京オリンピックでの活躍により、一躍国民的英雄として称えられたものの、その後は度重なる故障に苦しみ、信頼していた自衛隊体育学校のコーチが、新校長と馬が合わず北海道に飛ばされた(P90)。
 とりわけ、この校長が幸吉の婚約を破談に追い込んだ張本人とされていて、この件に関して幸吉が兄に宛てた手紙は、著者が発見したなかで最長だったというから、よほど気持ちがかき乱されていた様子が想像できる。
 既に存命の関係者は少なくなっているが、著者は最後の謎を解くべく、その「婚約者」とされた女性にも接触を試みている。
 このエピソードこそ、幸吉の死の謎に迫るクライマックスなのだが、これまで伝えられてきた美談とは一線を画す証言を紹介しているだけに、読んでいるこちらの心もかき乱されてしまう。

 それは、これまでの伝記で深く触れられることがなかった話題だった。
 たとえば「オリンピックに奪われた命−円谷幸吉、三十年目の新証言によると、(婚約破棄に伴って返送された品の中に)少なくない手紙の束も返された。この手紙は相手の女性のプライバシーに係わるため公開されていない。(中略)もう少し歴史的時間が流れれば、この不世出のマラソンランナーの精神を示す記録が公開される日が来るかも知れない(同 P252)と秘められた手紙の数々も、ついに本書で紹介されている。
 円谷家の関係者は、誰一人として取材を拒まないばかりか、便宜まで図ってくれた。そのおかげで、幸吉が婚約者と交換した便りまで見つかり、破談に至る全貌が初めて明らかになった(P9)ことが、本書の価値を一層高めている。
 それだけではない。「敗れざる者たちや「孤高のランナー 円谷幸吉物語では前述の校長について「体育学校の上官」と名前は伏せられていたが、本書では実名を挙げ、幸吉の葬儀で罵声を浴びせられた悲しい事件も明るみに出している。
 見方によっては、個人の特定や、プライベートな文書の公開には賛否が分かれるかもしれないが、真実に迫ろうとする著者の執念が伝わってくる作品だ。

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