新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、今年(2020年)行われる予定だった東京オリンピックも延期となってしまったが、花形競技であるマラソンに関しては、昨年のMGCからファイナルチャレンジに至るまで、国民の注目を集め続けたことは記憶に新しい。
やはりオリンピックは特別なイベントなのだと、改めて感じさせてくれる思いだ。
そのオリンピックに、日本として初めて参加したのが、1912年のストックホルム大会であったが、遠い異国の地で知識も経験にも乏しい環境のもとで、陸上短距離・三島弥彦とともに、マラソンに出場した金栗四三は、ともに惨敗した。
とりわけ、選考会で世界記録を大幅に上回る記録を出し、期待されていた金栗に至っては、猛暑のなかで完走することもできなかった。
だが、レースの記録からは全く存在感が乏しいにも関わらず、なぜかスウェーデンの国民には、金栗の名が広く知られているという。
そんな不思議な現象に興味を惹かれた著者は、ストックホルムを訪れ、様々な関係者へコンタクトを取りながら、取材を重ねていく。
本書は、前著「箱根駅伝に賭けた夢」をベースに、それ以降に取材して得た情報などを加筆する内容となっていて、ほとんどのテーマや記述が重複している。
だが、改めて前著と比較しながら読んでいくと、著者がどれほど熱心に取材を繰り返してきたのかが伝わってきて、伝記の範囲にとどまらない、日本のスポーツ史とスポーツマンシップについて学ばされる一冊だ。
そういえば、昨年のNHK大河ドラマ「いだてん」において、金栗を主人公とする伝記が放送されたが、本書はまさに、そのときの生き生きとした映像が蘇ってくるような物語となっている。
それはたとえば、加納治五郎とクーベルタンとの熱い信頼関係により、日本でのオリンピックムーブメントを起こす経緯からはじまり、ダンディーな大森兵蔵が病に伏す様子など、まるで「いだてん」を小説で読んでいるかのようだ。
そして、著者は金栗が実際に走ったであろうストックホルムのマラソンコースを訪れ、フィンランドのコーレマイネンが先頭を切って走っていた写真もあったが、あれはこの辺りだったか。金栗選手も、先頭集団にはいないけれども、まだこの辺りでは前の選手たちを追い抜きつつ先を急いでいたはずだ。彼があとになって述懐している話にも、それがある (P93)と、当時の状況を想像しながら、丁寧に彼の足跡を追っている姿に、ノンフィクション作家としてのプロ意識が感じられる。
著者は、彼を介抱した家の子息らとも親交を深め、これまで謎が多かったストックホルムオリンピックでの「失踪」事件についても、彼のレース離脱については、二つの説があります。ペトレ家の庭へ迷い込んで来たというのと、道路脇のミゾに倒れていたというのとですね。しかし、後者は彼ではなかったと思います。ミゾに落ちていた選手もいたのでしょうがね。彼はそうではなかった。金栗四三さんは私の家の庭の中に迷い込んで来たのです。これは間違いない。 (P203)と、貴重な証言を聞き出すことにも成功している。
もちろん、ここまでは前著でも紹介されていたことなのだが、本書に加筆された後日談が、とてもほほえましい。
著者は前著あとがきにおいて、あのレースから100年後の機会に、日本からペトレ家へ公式に挨拶することができないだろうか、と切望していたが、その願いが実現したのである。
それは2012年6月のこと。日本オリンピック委員会の竹田恒和会長が、ストックホルムを訪れ、100年前に金栗四三選手を救助してくれたペトレ家に感謝を述べ、記念のプレートを贈ってくれた (P254)そうだ。
なるほど、本書は単なる前著の改題版かと思われたのだが、著者はどうしてもこのエピソードを読者に伝えたかったのかもしれない。
余談:本書によると、金栗が教員奉職した先として、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学) (P168)を挙げ、ここでテニス大会を企画し、女子体育振興の弾みとなったと記載されているが、Wikipediaによると、当該校での勤務歴は認められず、代わりに東京府女子師範学校(現・東京学芸大学) に奉職したことがあると記されている。
ちなみに、走れ二十五万キロによると、小石川竹早町にある 東京女子師範の教壇に立った (同P219-220)とあるから、やはり統合前の東京学芸大学が正確ではないかと考えられるが、ぜひ今後史実を確認してみたい。
参考書籍:著者の前著 箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡 |