長い歴史を誇り、学生駅伝の代名詞ともなっている「箱根駅伝」の最優秀選手に贈られる「金栗杯」を始め、「金栗」の名を冠した長距離レースは少なくない。
偶然手元にあった陸上競技の月刊誌を開いてみても、「金栗記念選抜中長距離熊本大会」が、2012年ロンドン・オリンピックに至る国内トラックシーズンの開幕を告げるレースとして大きく取り上げられている。
金栗四三の名は、今なお陸上競技の世界でその名を聞く機会が多いが、恥ずかしながら本書を読むまで、どのような人物だったのか詳しく知らなかった。
金栗の原点は、日本がオリンピックに初めて参加した、1912年(明治45年)のストックホルム大会にある。
大会前に好記録を出して期待されていた金栗ではあったが、慣れない海外生活と猛暑のために意識もうろうとしながら、コースを外れてしまい、完走すらできなかった。
スポーツに対する意識が欧米に比べて雲泥の差があった当時では当然の結果だったかもしれないが、それ以降、金栗は革命的な体育教育を日本全国でおこしていく。
そのひとつが、マラソン選手としての土台を育成するために考案した、長距離リレー競技である「駅伝」だ。
マラソンという競技がまだ一般的ではなかった当時、東京遷都五十周年のイベントの一環として実施された「東海道五十三次駅伝競走」が評判となり、「駅伝」の名が日本全国に広まっていったという。
「駅伝」は長距離走者の育成に絶大な効果があると確信した金栗は、同調する仲間とともに「アメリカ大陸横断駅伝」という壮大なレースを企画し、その予選会として始まったのが「東京箱根間往復大学駅伝競走」だと言われている。
「天下の嶮」をロッキー山脈になぞらえたわけだ。
第一回大会は1920年(大正9年)に始まった。当時の状況を記述した、「学生の本分は勉学にあり」というわけで、選手たちには午前中の授業のあとの、午後からのレースであった (P129)というくだりは、現代の大学関係者にとっては耳の痛い話かもしれないが、多くの若者がこの大会で走ることを目標にして切磋琢磨している姿からは、金栗が目指した「マラソンの普及」という志が、いまもなお脈々と受け継がれていることの証左と言えるだろう。
そんな金栗に惹かれ、ストックホルムまで尋ねた著者によると、オリンピックの勝者よりも、金栗の方がよほど住民の記憶に残っていることに驚かされたという。それは以下の有名なエピソードからも分かる。
ストックホルム・オリンピック開催から55年目の祝賀行事に招かれた金栗は、関係者の粋な計らいによりオリンピックのゴールテープを切らせてもらい、日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、五四年と八ヵ月六日五時間三二分二〇秒三。これをもちまして、第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします。 (P159)とアナウンスされ、多くの拍手で迎えられたという。
選手としては必ずしも記録に残ることはできなかったかもしれないが、金栗が生涯を通して競技の普及に取り組んだ功績は、数字では表すことのできない偉大な資産だ。
奇しくも、ストックホルム大会から100年後のロンドン大会では、いずれも箱根駅伝に育てられた3名のランナーが、日本代表としてスタートラインに着こうとしている。
育ての親である「マラソンの父」が天国で微笑んでいる姿が目に浮かぶようだ。 |