ここ数年、男子マラソンの世界記録が慌ただしく変遷している。
いつ、誰が次のレコードホルダーとなるのか予想することは極めて困難だが、いずれにしても国籍はケニアかエチオピアであろうことは想像に難くない。
それもそのはず。本書執筆時点において、IAAF(国際陸上競技連盟)が発表している歴代100傑を見ると、この2か国以外ではたった6名しかおらず、かつてマラソンで世界を席巻した日本人では、高岡寿成がかろうじて残っているだけという状況だ。
一体、なぜこれほどケニア、エチオピア勢がマラソンで強さを発揮できるのか?
そしていつから彼らがマラソン界を席巻しはじめたのか?
そんなマラソンファンの疑問に対し、本書は最新スポーツ科学の視点からその秘密を解き明かそうとしてくれる。
本書は、2012年ロンドンオリンピック直前に、NHKスペシャルとして放送された「ミラクルボディ」シリーズ3部作の最終回「マラソン最強軍団 持久力の限界に挑む(2012/7/16放送)」をベースにした書籍版。
ちなみに陸上短距離のウサイン・ボルトや、体操の内村航平もシリーズ前半で特集されているが、書籍化されたのはこのテーマのみだ。
それだけに、他のテーマに比べて特に力を入れていたことが伺える。たとえば、取材班の善家賢があとがきにおいて、前2作品はオリンピックにおける絶対王者を対象としたことに対し、マラソンはだれが勝ってもおかしくない筋書きのないドラマであると、その魅力について熱く語っており、マラソンに対する視聴者の関心が高いことを示唆している。
取材班は、マラソンの記録を決める要素を、最大酸素摂取量、乳酸、ランニング・エコノミーの3つに分類し、様々な観点から分析していくのだが、その対象となるアスリートたるや、現役の超トップアスリートばかりだ。
あるときは、「皇帝」と呼ばれるエチオピアの英雄、ハイレ・ゲブレシラシエを世界で初めて(P38) MRIまで担ぎ出し、巨大な心臓の撮影に成功し、またあるときは、世界記録保持者のパトリック・マカウ(ケニア)をトレッドミルへ招待し、2分52秒/kmというハイペースでも血中乳酸濃度がOBLAを下回っているという信じられない事実を明らかにしてくれる(注:OBLAとは血中乳酸蓄積開始点のことで、肉体的に疲労が蓄積する目安ポイントとされている)。
なかでも取材班が注目したのが彼らの着地だ。特にマカウの着地が極めて独特であることが、本書において大変興味を惹かれる点だ。
マカウは、足底の面を一旦地面すれすれに平行にしてから、つま先をスッと引き戻して着地をしている(P103)。
と、文章ではなんとなく読み飛ばしそうになってしまうが、この動作を力学的に分析した科学者たちによると、地面からの衝撃が少なく、ブレーキによる減速も小さい究極の省エネルギー走法(P111) であるそうだ。
この数行を読んだ直後に、思わず私は録画した番組でこの場面を何度となく見返してしまった。なるほど、こんなところに強さの秘密が隠されていたのかと、脳に衝撃が走ったような思いだ。
彼らが幼いころから大地を駆け巡り、驚くべき身体能力を身に着けていることに対し、われわれ日本人が勝つことは容易ではないのだろうか? いや、それでもマラソンは分からない。前述の善家が、この極限の耐久レースには、いくら科学が進んでも、説明しきれない、"何か"が存在するのだろう(P187) と語るように、ロンドンオリンピックでは世界歴代2位の記録を有するウィルソン・キプサング(ケニア)らを抑え、ノーマークのウガンダ選手が金メダルを獲得した。
ちなみに、マカウはケニア代表選考レースに敗れ、スタートラインに立つこともできない波乱があったことも追記しておかなければならないだろう。
取材班は本書の終盤において、マラソンで勝つためには、いかに「心」の領域が大きな比重を占めているかを実感させられた(P161) と、テレビ放送版では大きく取り上げていなかった心理面について言及している。
そう考えると、身体能力に劣る日本人でも、マラソンに勝つチャンスはまだ残されているのではないだろうか。取材班からの最後のメッセージとして、そんなヒントを授けてもらったようだ。
ただ、唯一残念なのは、写真はもちろん図表やグラフが全く掲載されておらず、特に、本書のメインテーマである着地動作では、連続写真などを掲載してほしかった。
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