2005年に出版された前著「駅伝がマラソンをダメにした」のなかで、箱根駅伝の功罪について持論を展開した、スポーツジャーナリスト・生島淳さんによる著作。 タイトルは「監督と大学駅伝」だが、内容は「箱根駅伝と監督」についてであり、箱根駅伝常連校と呼ばれる代表的な監督への取材と、著者なりの批評で構成されている。 その取材対象は、「駒大・大八木弘明」、「早大・渡辺康幸」、「山梨学大・上田誠仁」、「日体大・別府健至」、「神奈川大・大後栄治」、「大東大・青葉昌幸」、「順大・澤木啓祐」の7名の現役、あるいは長年にわたってチームを率いてきた元監督だ。 取材対象者がどのような基準で絞り込まれたかについては、本書の中でなんら言及されていない。しかし、著者は彼らに対して、昨今の「大学の経営戦略」に組み込まれた箱根駅伝についてどのように考えているかを中心に問うていることから、選手として走った「牧歌的な時代」と、勝利を求められるプレッシャーと戦わざるをえない「日テレ時代」のいずれも経験している重鎮が選ばれている気がする。
各章の内容については、それぞれの大学がどのようなカラーで、どのような戦略を描いて本戦に挑んでいるかについて、各者各様の考え方が詳しく掘り下げられていて、駅伝ファンには興味深い記事が満載だ。 たとえば、伝統的に往路を重視する早大に対し、復路を重視する駒大や順大の戦略の違いははっきりしているし、リクルーティング活動ひとつとってみても、駒大・大八木が選手の動きや、入学の動機に至るまで緻密に観察しているのは瞠目させられてしまう。 また、同大会を通じての、様々な運命的なつながりを感じさせてくれる話題にも興味をそそられる。代表的なのは、母校を破って優勝した、神奈川大の大後(日体大出身)と、山梨学大の上田(順大出身)に関するエピソードで、学生時代に得た糧を生かし、自分なりにアレンジしながら新たな伝統を築いていくあたりは、箱根駅伝のスケールの大きさを感じずにはいられない(とりわけ、上田が順大時代に体験した、前日の選手交代についてのエピソードは心を打たれる)。 第三者による特定の人物を対象としたノンフィクションは数多いが、こうやって大勢を対象に、共通のテーマを横断的に対比させていくと、これまで意識していなかった細かな戦略や指導方針の違いが浮き彫りになるようだ。
一方、近年の箱根駅伝は、テレビ中継によって大々的に注目を集められる反面、結果を出せなければ監督を交代させられる非情な世界へ変化してきている。そんなプレッシャーについて、各監督がどのように受け止めているのかについても積極的に尋ねていて、それぞれが感じている微妙な心理状態を上手に聞き出すことに成功している。 そんな意味では、本書は「箱根駅伝」を社会学的に扱ったノンフィクションとして、とても貴重な内容であり、誰もがうすうす感じていたことをはっきり指摘していて、胸がすく思いだ。
しかし、悔しいかな、私にはもっと深く踏み込んでほしかったと思う点が数多く感じられた。 たとえば、箱根駅伝に出場したことで、「全国的にはほとんど知られていなかった山梨学院大学の知名度が、天文学的にアップした (P77)」と、その宣伝効果について断言しているのだが、根拠が示されず、あまりに抽象的な表現だ。願わくは、公に文章化して出版する以上は、それを裏付けるデータを提供してほしいものだ。 また、前著のなかで著者が選手名鑑を見ながら、「下級生でも茶髪でロン毛は当たり前 」で、派手さ加減では「断トツ 」と、部内の空気のゆるさについて推測していた法大あたりを取材してくれれば、より幅広い内容になったと思うのだが、本書の取材対象は、外見上は雰囲気が似ている学生が中心の大学に偏っているのも残念だ(前著P145〜151より引用)。 |