1989年5月27日に米国サンノゼで行われた国際グランプリシリーズの開幕戦。
大きな弧を描いてやりが突き刺さった地点は、80mラインを大きく上回っていた。どよめき立つ観衆が見守る中で発表された速報記録はなんと87m68cm。
従来の記録を2cm上回る世界新記録だ!
だが、直後に再計測が二度も行われ、公式記録は87m60cmと8cmも縮められてしまい、再三の抗議にもかかわらず幻の世界記録になってしまった。
冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。おそらく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にずらしたのだ。アメリカ人は、たまにこういうことをする。これが記録に厳格なイギリス、またはアジア各国や日本だったら、話はまた違っていただろう (P145)と後に本人が憤るように、世界一の称号がこぼれ落ちたことは、我々陸上競技ファンから見ると悔やむに悔やみきれない。
なぜなら、恵まれた体格を誇る欧米選手に比べ、身体的に劣る日本人が投てき種目で世界トップクラスの成績を収めることは並大抵のことではないことを、私たちは知っている。
だからこそ、溝口は並外れたトレーニング量を自らに課し、常識にとらわれずに技術を追求した。
言葉で表現することは簡単ではあるが、本書を読んでいると、常軌を逸したとも思えるトレーニング量に唖然としてしまう。たとえば、ウェイトトレーニングを十二時間ぶっ通しでトレーニングした後、二、三時間休んで、さらに十二時間練習することもあった。これだけやってようやく人間は、初めて限界に達する。
ただしこれは全て、ウェイトだけの時間である。そこにプラスして、走・跳と、投げの練習が入る。これで120〜140%の練習になる。つまり体力的限界を超えているわけだが、そこは精神、俗にいう「根性」でカバーする。
人間というのは、肉体の限界を超えたところに、本当の限界がある。いわゆる「火事場の馬鹿力」というやつで、毎日、その「火事場の馬鹿力」を無理やり出せば良いだけのことだ。「火事で焼け死ぬ」と思ってやれば、できないことはない。死ぬ気でやれば人間というのは大体、何でもやれるものだ (P39-40)とさらりと語っているが、これほど気迫にあふれたアスリートは、陸上競技界だけでなく、人類にこの人をおいて他にはいないのではないだろうか?
そんな「溝口伝説」は競技の世界にとどまらない。
タバコは一日二箱吸っていた (P71)。呑むときは徹底的に呑む。(中略)ウィスキーならボトル二本は大丈夫だ (P172)と豪語し、呑み屋ではナンパもするし、水商売の女ともよく付き合った (P70)とあけっぴろげに語っている。
これらも溝口に言わせれば、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかる (P72)。(ナンパは)ベッドに持ちこむまでが面白い。人間の機微が分からないと成功しないから、その研究にもなるので一石二鳥だ。(中略)この頃にあった日本選手権の前夜、私はナンパに成功して朝方まで女といたが、さすがに翌日は二日酔いと、いつもと違う動きをしたので疲れていた。それでも80m台を投げて優勝したが、これは何か不意のことが試合前に起こっても、対処できるようにと考えて、意図的にしていたことだ (P70)と理路整然と説かれると、思わず開いた口が塞がらなくなってしまいそうだ。
たしかに周囲からは、常識を逸脱したかに見える彼の言動が理解されるのは難しく、苦々しい思いをしていた関係者も多かったようだが、それでも自分のポリシーを貫き、身体が壊れるまでやり投げという競技(彼に言わせると「全長2.6m、重さ800gの細長い物体をより遠くに飛ばす」こと)に人生を賭けた超人がいた。そのことに著者は惚れこんでしまったのかもしれない。
そういえば、私は前著「異形の日本人」のなかで取り上げられた溝口に関する短編を読んで、「溝口だけで一冊書いてくれればもっと面白いのに、もったいない」と感じていたが、もしかしたらそんな読者の声が著者に届いたのだろうか?
いや、著者あとがきによると前著はあくまで、溝口の表面だけをスケッチしたに過ぎない。もともとは、彼のトレーニングと投擲技術の話だけで一冊の本にするつもりだった (P229)。と、当時からすでに本書を構想していたことを明かしている。
そんな意味では、18年間に及ぶ聞き取りを通じて完成させたという本書は、著者にとっても集大成と呼べる作品だ。
マスメディアに登場する機会が少ない溝口だけに、彼の豪快すぎる「やり投げ人生」と、引退後の意外な姿を一冊にまとめてくれた意義は大きく、数々の溝口伝説を現代に蘇らせてくれた著者に敬意を表したい。
※ 本書は2016年度・ミズノスポーツライター賞 優秀賞受賞作品 |