トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る

アベベを覚えてますか

アベベを覚えてますか
著者
出版社 新声社
出版年月 1984年8月
価格 980円
入手場所 市立図書館
書評掲載 2021年10月
★★★★★

 市川崑が監督した1964年の東京オリンピック記録映画は、その芸術性の高さゆえに、記録性に欠けるのではないかと物議を醸したが、当時の日本の映像技術を駆使した傑作として知られている。
 特に、「どんな場合もマラソンはオリンピックの華と言われている」のナレーションで始まるマラソン競技は、紛れもなくこの映画のクライマックスだ。
 東京オリンピック=マラソン・レース=アベベ・ビキラという連想が無理なく浮かぶ日本人にとって、アベベはある時代の象徴ですらある(P153)と著者が語るように、精悍な表情で淡々と甲州街道をひた走るアベベの姿は、この時代を生きた日本人の脳裏に強く刻まれていることだろう。

 そんな英雄が41歳の若さで世を去ったという悲報は、日本でも大きく報道されたという。
 いや、もしかしたらその4年前に起きた交通事故の方が、世界に衝撃を与えていたかもしれない。
 著者はそんなアベベ・ビキラの死と噂話の間にある"何か"(P238)に惹かれ、厳しい入国規制が敷かれていた1970年代のエチオピアを何度か訪れ、体当たりで取材を重ねていく。
 それは、アベベの家族であったり、親衛隊の同期のワミ・ブラト(*1)であったり、先輩のマモ・ウォルデであったりと、慣れない言語に戸惑いながらも、貴重な証言を引き出してくれる。

 とりわけ、本書の後半はワミやマモの生い立ちも紹介しながら、彼らから見たアベベを語らせてくれ、羨望と妬みが交錯する複雑な心境を吐露しつつも、栄光から失意に至る英雄の姿を生き生きと蘇らせてくれる。
 彼らとて、当初はアベベよりも期待されていた。
 現に1968年のメキシコシティオリンピックでは、三連覇を狙ったアベベが途中棄権に終わるなか、マモがマラソン金メダルを獲得している。
 偉大なランナーに違いないはずの彼らの名前や顔が、我々の記憶に残っていない理由は、アベベという神格化した存在の陰に隠れていたからに違いない。
 だからこそ、彼らにとってアベベは、内心忸怩たるものがあったことは容易に想像がつく(P183)と著者が語るような、微妙な人間関係を本書は表現力豊かに伝えてくれる。

 本書の存在は、先週読んだばかりのアベベ・ビキラ「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯(ティム・ジューダ著) での訳者あとがきで知った。
 ティムの著作では、アベベのコーチとして知られるオンニ・ニスカネンに焦点を当てながら、マモへの取材が叶わなかったことを悔やんでいたが、本書では逆に、著者はマモとの面談を数十回にわたって実現した一方で、存命のニスカネンへの取材は果たせずにほぞを噛んでいる。
 逆に言えば、この2冊を読むことで様々な角度からアベベを知ることができ、2週連続でこれらに触れる機会があったことはこの上ない幸せだ。
 もちろん両者とも、謎めいた交通事故の真相を知ることは果たせないのだが、巷間に伝えられる噂や伝聞を足がかりに、英雄の知られざる影の姿を垣間見せてくれる。
 本書が執筆された年代は古いものの、臨場感にあふれ、かつ流れるようなストーリー展開は時代を感じさせることなく、ルポとしても、伝記としても価値が高い一冊だ。

※1 ワミはWikipedia英語版によると「Wami Biratu」として紹介され、「ワミ・ビラツ」と邦訳されることが多いが、Wikipedia日本語版、及び本書では「ワミ・ブラト」と邦訳している。
※2 本書は筑摩書房が1992年に文庫化し、壮神社が2004年に単行本を復刊させている。

トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る