勝てっこない。
先月行われたばかりの東京オリンピック男子マラソンで、リオ大会に続く二連覇を難なく達成したエリウド・キプチョゲ(ケニア)は、王者の風格すら漂う圧巻の独走劇を披露してくれた。
2位以下も軒並みアフリカにルーツを持つ選手が続き、その圧倒的な強さには舌を巻くしかない。
だが、いまでこそ世界のマラソン界を席巻しているものの、この男が登場するまでは、アフリカ系選手が国際大会で活躍することなど、想像すらされていなかった。
本書は、1960年のローマ大会、1964年の東京大会と史上初めてオリンピックのマラソンで連覇を果たしたアベベ・ビキラの生涯を、様々な文献や存命の関係者へのインタビューを通じて綴っている。
本書の特筆すべきは、アベベ本人より、むしろ周辺人物の生涯や哲学を掘り下げている点にある。
特に、本書の前半はスウェーデン人のコーチ、オンニ・ニスカネンに関して紙幅が費やされている。
彼はエチオピア人よりエチオピア人らしい (P58)とも称され、現地の社会支援に貢献した一方で、生活を潔癖なまでに使い分けた生き方 (同)と著者が評すように、意外にも選手たちは、彼の私生活を知る機会は全くなかったという。
そんなミステリアスな人物であるからこそ、ニスカネンの生涯を序章においた本書のストーリー構成は、妙味を感じさせてくれる。
そう、アベベを語るにはこの人物を知らなければ始まらない。
エチオピアからの士官学校設立要請に応え、スウェーデンから派遣されたニスカネンは、未整備だったスポーツ環境を整えていく。
オリンピックに参加するためには、国ごとにオリンピック委員会を設けることが条件とされている (P73)が、そんな土台すら当時のエチオピアにはなかったのだ。
ニスカネンはエチオピアのスポーツ環境を整えるなかで、彼らが持久的競技に優れた能力を有していることを発見する。
自身は競技者として大成しなかったが、彼らを育てることで夢をかなえられるのではないか。著者をして並外れた野心家 (P17)と語らせた彼にとって、アベベは理想の人物だったに違いない。
本書の言葉を借りれば、ニスカネンは金の鉱脈を掘り当てたのだ (P82)。
そして迎えたローマオリンピックで、無名のランナーがアフリカに初めてのオリンピック金メダルをもたらした。それは、かつてイタリアに侵攻された歴史のあるエチオピアにとって、社会的にも衝撃を与えた快挙であり、アベベは一夜にして英雄となった。
その一方で、アベベは連覇を果たした東京オリンピック以降はニスカネンとも距離を置き、マモ・ウォルデ(アベベが三連覇を目指した1968年メキシコシティオリンピックでマラソン金メダリスト)とも良好な関係を築けず、かつてたしなむ程度だった酒量は増え、女性に対するあの控えめなしぐさも姿を消した (P190)。
晩年は自動車事故で半身不随となったが、その原因は飲酒が原因で起きたのかもしれない (P218)とも、妻を寝取られた男が嫉妬のあげくアベベの命を狙った (P219)とも噂されていることを本書は赤裸々に伝えている。
哲人とも称され、その朴訥なイメージが日本人の共感を呼んでいたに違いないが、それだけに王者の転落 (P206)と題された後半はため息が止まらない。
原書(BIKILA: Ethiopia's Barefoot Olympian)が2008年に発刊された本書は、アベベを題材にした書籍のなかでは比較的新しいだけに、彼の生涯を広範に、深淵に、そして精緻に調査を重ね、アベベ・ビキラという人物像を現代に蘇らせてくれる良書だ。
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