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ランナーは太陽をわかちあう
ケニアの伝説的ランニングコーチと世界王者たちの物語

ランナーは太陽をわかちあう
著者
訳者 児島修
出版社 青土社
出版年月 2024年8月
価格 2,640円
入手場所 Kindle
書評掲載 2024年12月
★★★★☆

 世界最強のマラソンランナーは誰かと聞かれると、ケニアのエリウド・キプチョゲこそ第一人者であることに、疑いの余地はないだろう。
 とりわけ、2020東京オリンピックで札幌を悠々と駆け抜けた圧倒的な強さは、日本のマラソンファンの脳裏に刻まれているに違いない。
 「絶対王者」とも称され、先頭を走ることが約束されたかのような強さに加え、2018年のベルリンマラソンでは2時間01分39秒と言う世界新記録で優勝するや、2019年には非公式ながら2時間の壁を破る驚異的なタイムを叩き出した。

 だが、それほど世界を牽引する「マラソン界のレジェンド」ながら、日本国内において彼を題材にした伝記は見つからない。
 まれに陸上競技専門誌において、スポンサー主催のイベントで取材が許され、世界トップランナーの特集が組まれることはあるものの、紙面の多くを「箱根駅伝」が占めてしまう出版界の現状に、肩を落としてしまう。
 日本からアフリカはやはり遠い。
 そんな状況を憂い、かつては私も背伸びをし、エチオピアの皇帝と称されたハイレ・ゲブレシラシエの伝記「The Greatest: The Haile Gebrselassie Story」を原著で購読チャレンジしたものの、20年近くも経て、いまだ完読に至っていない。
 マラソンやトラック長距離競技は日本人に人気があるにも関わらず、世界トップランナーの素顔を語る書籍にたどり着くハードルは高い。

 本書は、そんな落胆した心に火を灯す待望の一冊だ。
 エリウド・キプチョゲといえば、言わずと知られた世界一のマラソンランナーだが、情報の乏しい日本人にとっては、少年時代から高地を長距離通学していて、自然に持久力が身についたと想像しがちかもしれない。本書はそんな素人考えを根底から覆してくれる。
 優れたコーチとの出会いがなければ、人類の至宝は誕生しなかったのだ。
 ランニングは頭が悪い奴がやることだ、と思われていたんだ(P163)と、ケニアが置かれた当時のランニング環境を語る若き日のパトリック・サングはしかし、学業でもトップレベルを維持。テキサス大学のジェームズ・ブラックウッドの勧誘で米国へ留学し、3,000m障害でオリンピック銀メダルを獲得するなど、母国の陸上競技界を牽引した。

 サングが残した功績は選手時代にとどまらない。
 オリンピックでチームキャプテンを担ったことで、その後のトレーニングキャンプでコーチをする経験を積むことができたと語り、数々の名選手を育成してきた。
 冒頭のキプチョゲをはじめ、フェイス・キピエゴン(女子1,500mでオリンピック連覇)や、ニューヨークシティマラソン優勝のジェフリー・カムウォロルなど、枚挙に暇がない(とりわけカムウォロルの交通事故からの復帰は、強烈な意志を感じるエピソードだ)。
 そんなサングの信念は、信頼(P148)だと語り、競技パフォーマンスだけではなく、人生に対する準備ができている人間を育てたい(P234)と自立した選手を育てることを重視している。
 ランニングは人生の一部にすぎない。人生には、それ以外のことがたくさんある。アスリートである前に、人として生きる道を学ぶこと。こうした考えを持つことが大切だ(P283)と語る言葉からは、もはやプロスポーツコーチというよりは、人生を導く高僧のたたずまいだ。
 事実、キプチョゲらは高額賞金を得ながらも贅沢な暮らしには目もくれず、日常のトレーニングに明け暮れているという。
 かくも世界的な指導者を知ることができ、本書に出会えたことは望外の喜びであり、「著者あとがき」をして、にもかかわらず、他の著名なランニングコーチとは異なり、スポットライトをほとんど浴びてこなかった(P297)ことが驚きだ。
 やや誤植が散見されるものの、日本のマラソンランナーが世界の頂点に立つために、世界トップクラスの指導者と選手の歩みを、ぜひ熟読してもらいたい。

参考書籍:
エチオピアのマラソントレーニングに迫るランニング王国を生きる
マラソン大国ケニア探ったケニア! 彼らはなぜ早いのか

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