ロンドンオリンピック女子マラソンで誇らしげにメダルを首にかけ、日本中の喝采を集めた美しきヒロイン・辻本皐月。
そんな彼女の活躍を、テレビの前で唇を噛みながら見つめるしかない同僚の岸峰子。
悔しさと妬ましい気持ちを抱くのは無理もない。
本当ならばその舞台に立つべきはずだった日本代表選手は私だったのに、補欠だった後輩の辻本にその座を明け渡さざるを得なかったのだから。
妊娠が発覚したのは、世紀の一大レースを目前に控えた合宿前に実施された血液検査でのことだった。
女子マラソンといえば、オリンピックで日本人選手の活躍が期待される数少ない種目であり、代表選手に対する注目度も極めて高い。
そんなスター選手のスキャンダルは瞬く間に日本中を駆け巡り、大バッシングを受けることになってしまう。
記者会見での心ない質問はもとより、信頼していた監督、チームメイトや家族からも、腫れ物に触られるような孤独な環境に陥りながら、それでも子どもを産む決意をし、母となる道を選んだ。
そうは言っても、世間は根も葉もないうわさでネット上を盛り上げ、天誅を下すかのような歪んだ正義感で、彼女を精神的にも肉体的にも追い詰めていく。
唯一の理解者は夫だったが、危険な環境におかれながらも復帰を目指してトレーニングに励む彼女とは、徐々に距離が離れ、あっさりと離縁されてしまった。
夢破れ、そして応援してくれた人がどんどん離れていくにもかかわらず、なぜ彼女は走ろうとするのだろう。
「東京マラソンを2時間40分以内で走ることができたら復帰させてもいい」
所属する企業の監督からの言葉を信じ、出産後に臨んだレースでぎりぎりその目標を果たし、約束通り陸上部に復帰するも、待っていたのは会社の同僚やチームメイトからの冷たい視線と嫌がらせだった。
しかもチーム練習には加わらせてもらえず、あれほど信頼関係で結ばれていた監督からの指導も受けられないという。
アゲインストの風を真っ向から受け続け、はたしてハッピーエンドは訪れるのだろうか、と心配になりながら読み進めていくのだが、人生を自ら切り拓いていこうとする姿には、思わずウルッときてしまう。
「限界なんて、誰が決めたの?」
何度となく訪れる人生の岐路に立つたびに、自分に問いかけるその言葉が、どんどんと力強さを増していくようで、ページをめくるたびに感情移入してしまう。
また著者は女子マラソンの世界もよく調べているようで、監督と選手の信頼関係がいかに大切かということや、専門的な練習や食事の大切さを、ストーリーのなかに上手に溶け込ませている。
その一方で、我々が住む世界は、シングルマザーが許容されない未熟な社会であることや、一般人が突然標的になりかねない情報化社会の恐ろしさも教えてくれたようで、一冊の素晴らしいスポーツ小説であると同時に、現代社会が抱える様々な課題に疑問を投げかけているかのような作品だ。
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