昨年(2017年)のロンドン世界陸上競技選手権で日本チームが獲得したメダルの数は3つだった。
そのうちひとつが、4X100mリレーであることは、多くの陸上競技関係者の記憶に刻まれていることだろう。
では残る2つは一体誰だっただろうか? そしてどの種目だっただろうか?
たしか、男子マラソンで川内優輝と中本健太郎があと一歩のところで入賞を逃した悔しさは覚えている。はて、あと2つもメダルをとっていたっけ? と首をかしげてしまうのは、最近のトレンドに疎くなってしまった中高年の証かもしれない。
意外と知られていないのだが、いまや競歩は日本のお家芸で、専門誌も近年の競歩を称して日本に、マラソンの時代が去って、競歩の時代が到来したことを如実に物語っている (月刊陸上競技2017年10月号
P125)」と語るように、上述の世界選手権では荒井広宙、小林快がそれぞれ2位と3位。丸尾知司が5位と50km競歩でトリプル入賞を果たしている。
本書は近年日本が国際的な活躍を見せている卓球と競歩、そしてパラリンピック種目であるブラインドサッカーを舞台にしているが、三者に共通する点は何だろうか? それはなんとなくマニアック、というのはあまりに失礼な印象だろうか?
たしかに卓球は、アジアやヨーロッパの一部では人気が高いものの、中学・高校の部活動では卓球部員が卓越した身体能力を有していたわけでもなく、寡黙で内省的な性格が多かった気がする。
競歩もまた然りで、たいていの場合は長距離走を志していたがレギュラーになれない、あるいは故障後のリハビリとして始めたら向いていた、というケースが多い。
つまり、本書に登場するアスリートに共通するのは、平凡ながらも地道に練習を重ねながら、いつかオリンピックの晴れ舞台に立ちたいと願う大多数のアスリートと全く変わらない点で、だからこそ読者は競技会やレースに臨む緊張感や敗れた時の悔しさが共有できてしまい、心揺り動かされてしまう。
さて本書の大半を占めるテーマは卓球だが、やはり私は競歩を紹介したい。
主人公の白岡拓馬は32歳の社会人で、この日本選手権でオリンピック日本代表の座をつかまなければ、引退しか選択肢はないという崖っぷちアスリートだ。
舞台は能登で行われる50km競歩。マラソンよりも長い時間のなかで、自らの人生を振り返る回想シーンを通じて、白岡の苦悩とレースに賭ける魂の叫びを伝えてくれる。
それは、かつて信頼していた恩師との絶縁や、相思相愛だった恋人との擦れ違い、そして同僚からの妬みや嫌がらせであったりと、誰もが長い人生のなかで少なからず接してしまうドロドロとした人間関係が起因となっている。
とりわけ、アスリートにとっては心打たれるセリフが何度も登場し、たとえば息子を心配し身を固めてはと案じる母に対し、五十キロ競歩は、三十すぎが脂の乗りきった年代なんだ。必ず結果を出してみせるから、見ていてくれよな (P188)と虚勢を張って答える姿に、結果を出さなければならないというプレッシャーの強さをひしひしと感じてしまう。
陸上競技に携わるアスリートであれば、誰しもオリンピック出場にあこがれる。だが、多くの選手が夢をつかめずに、競技生活から離れていく。栄冠は一握りの者にしか与えられない。幾多の敗者が無名のまま退場するしかなかった (P232)。
順風満帆な選手生活を送っていける者は、数えるほどしかいないのだろう。誰もが苦しみ、悩み、惑い、結果を求めて、あがき続ける。引退を迫られた時、悔いがないと言えるものがどれだけいるか (P238)、と反芻する白岡の気持ちには共感を禁じ得ない。
そして迎えたレース終盤。代表入りが絶望的となる3位に後退するなかで、耐えろ。ボロ雑巾に残ったわずかな水分をしぼりきるつもりで、気力の一歩を重ねて歩く。もどかしいほどに二位の背中が遠い。(中略)今日まで十六年間積み上げてきた練習の成果が、ここからの三十分に出る。この道を歩くため、すべてを犠牲にしてきた。恩人を裏切り、愛したはずの女も捨てた。多くの批判を浴びてきた。それもすべてこの道を行くためだった。日々の練習が自信を塗り固めて、選手の土台を築く。歩けるはずだ (241-242)と自らを奮い立たせるシーンに心動かされる。
本書の特筆すべきは、臨場感たっぷりの描写と、競技の特性を存分に生かしている点で、アスリートとして厳しい練習を重ねた読者ならば、読んでいるうちに思わず力が入ってしまうのは間違いないだろう。
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