世界陸上ドーハ大会が開幕した。
とは言うものの、毎回注目を集めるマラソンでは、有力選手は軒並みMGCへシフトし、選手層の薄さは否めない。
国内ではラグビーやバレーボールのワールドカップがゴールデンタイムに報道され、やや世界陸上の盛り上がりが不安視されるなかにあって、今回はこの種目が起爆剤となってくれるのではないだろうか?
「競歩」という種目は、陸上競技のなかでも著しく異色だ。
「より速く、より高く、より遠くへ」というシンプルさを追求する陸上競技のモットーとは一線を画し、長らく陸上競技に携わってきた私からみても、競歩だけは様々な意味で特殊な競技に思えてしまうのだ。
まず、クネクネした選手の動作は不自然であり、走ってはいけないというルールが見ていてもどかしい。さらにその歩型について「違反」がないかを目視で行う審判の判定も分かりにくい。
いや、そう感じているのは決して私だけではないのかもしれない。
たとえば、本書の登場人物をして『より速く』なら走ればいいじゃないか、って話です (P74)と身もふたもないセリフを語らせている。
たしかに、一般的に陸上競技といえば「走・跳・投」を競う競技と教えられ、なんとなく競歩は「仲間外れ」感を漂わせている。
本書は、次回作のアイデアも碌に出せなくなっている (P21)学生小説家・榛名忍が、新たな小説のテーマを模索していた過程で競歩に出会うというプロローグなのだが、マイナー競技の取材には全く気乗りがしていない。
「天才高校生作家」として持ち上げられ、小説家としての将来を嘱望されていたものの、いまは長いトンネルを抜け出せないまま、もがき苦しんでいる。
一方、忍と同じ大学に通い、たったひとりで競歩に取り組んでいる八千代篤彦もまた、高校時代はランナーとして期待され、箱根駅伝出場を目指して進学したものの、芽が出ず競歩に転向し、自らの存在意義を模索していた。
八千代からすれば、華やかな文壇デビューを果たし、競歩に興味もない人物に対し冷ややかな視線を向け、両者との間には厚い壁が築かれたままだったが、忍が競歩の独特なルールや練習スタイルに興味をもち、地方での大会にも熱心に応援に訪れるにつれ、八千代が徐々に心を開いていく。
20km、いやときにはマラソンよりも長い50kmもの距離を、歩型を崩さずにひたすら「歩く」。
その過酷さもさることながら、心も体も限界ってときに、目の前で審判員が注意の札を出す。え、今のロスコンなの? ベント・ニーなの? ボキッと折れますよ、心が。折れた瞬間、体が動かなくなる。歩形を立て直さなきゃいけないのに、それすらできなくなる。そうこうしているうちに、警告の赤い札が出される。三時間も必死に歩いたのに、あっさり失格になることだってある。 (P144)と語る競歩経験者に対し、忍もまた小説を執筆する苦行と重ね合わせながら共感を禁じ得ない。
本書を手にしたとき、なぜ競歩というマイナーな競技を題材にしたのだろうかと不思議に思っていたが、決して華やかではない世界で、もがきながらも前に進もうとする姿は、我々の人生そのものではないかと思わされてしまう。
ときには恋愛もあり、けんかもあり、苦しさから逃げ出してしまうこともあり、学生時代の青春をリアルに描いている。
誰もがラグビーやバレーボールの日本代表のようにスポットライトを浴びることができるわけではないけれど、自分が決めた場所で必死に前に進んでいけば、いつか道は切り拓かれる。
そんな道徳的な教えを、本書のストーリーから自然と学ばされてしまった気がする。
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