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国士舘物語

国士舘大学物語
著者
出版社 講談社文庫
出版年月 2018年8月
価格 820円
入手場所 市立図書館
書評掲載 2020年8月
★★★★☆

 「早慶上智」や「日東駒専」といった、まるで四字熟語のような単語は、受験専門誌が大学を難易度別に区分した頭文字と言われている。
 私が高校時代から使われているワードであるが、個性ある大学を、偏差値という尺度だけでランク分けすることに違和感を覚えてもいた。
 とりわけ、「大東亜帝国」なる名称は異彩を放っていた。
 まるで戦時を彷彿とさせる名称は、あたかも大学受験が戦争のように厳しい戦いであるかのような印象を与え、こじつけが過ぎるのではないかと感じたものだ。
 だが本書を読んで、その印象は必ずしも実態と乖離していないのではないか、と胸を突かれた。
 なぜなら、著者が学生時代を過ごした1980年代の国士舘大学体育学部は、まさに軍隊そのものとも言える苛烈な上下関係が存在し、いじめ、しごきが日常的に行われていたアンダーグラウンドだったのだから。

 著者略歴によると、1962年生まれ・国士舘大学体育学部卒とあるから、本書はおそらく著者の自伝的小説なのだろう。
 そのリアリティたるや、読みながら「(もう止めて!)」と叫びたくなるほど痛々しさに溢れていて、柔道部を頂点とした武闘派集団が、ヤクザ顔負けの暴力によって支配する、異質な世界を読者に伝えてくれる。
 その一方で、主人公を中心に個性豊かな登場人物がボコボコになり、もがき苦しみながらも、自らの存在意義を模索していく姿を、本書では生き生きと描いていて、学生時代にしか経験できない瑞々しさ(と血気盛んな行動力)を思い出させてくれる、熱過ぎる青春小説だ。

 主人公の江口孝介は、地元・三重県では陸上短距離で優勝経験があるほどの有望選手だったが、全国大会への出場は叶わず、東京に行くことができればどの大学でもよかったし、経済学部とか商学部とか、具体的に何を学ぶのかわからない学部に進むよりは、得意としてきた体育を続けられればいいやという程度だった(P16)という理由で、国士舘に入学した。
 だが、そこそこの大学生活を想像していた彼を待ち受けていたのは、あまりに非人道的な上下関係だった(以下はP41より引用)。 

 どれだけ疲れていても腹が立っても、先輩がどこかの部屋で飲んでいる日はベッドの上で座って待っていなければならず、睡魔に負けて体を横たえようものなら、容赦なく屋上行きが命じられる。厄介なのは屋上行きはすべて連帯責任となり、一年生全員に課せられる。
 (中略)ゴツゴツとしたコンクリートは数秒間正座するだけでも足を痺れさせ、とりわけ足の甲にダメージを与える。三十分ぐらいしたあたりから先輩たちが現われはじめ、ミスを犯したものを中心にヤキがはじまる。殴る、蹴る、引きずり回す、正座の上に乗っかったり肩に座ったりする先輩もいた。
 正座しているときは目をつむることになっていたが、殴打の音と怒声で恐怖のあまり目を開けるとさらに拳が炸裂した。

 読んでいるだけで血の味を覚えるほどリアルな回想だ。
 もちろん恐怖におびえる日々に耐え切れず、退学する者も後を絶たなかったようだが、そんな浮世離れした世界を体験しながら、彼らがグングンと精神的に成長していく姿が痛快すぎる。

 それは、主人公がアルバイトに通う居酒屋での出来事だった。
 「お願いしますよ課長。天下の国士舘でしょ」と後輩から会社の不満をぶつけられる耳がギョウザみたい肥満体型の上司らしき男
 「早慶上智」出身の後輩社員からさげすまれ、ご機嫌を取りながら、汗だくでその場を丸く治めようとする姿を目にし、国士舘での常識と、一般社会での常識がいかに乖離しているのかを感じていく。
 その一方で、大人になった主人公(おそらく著者のいま)は当時を振り返り、もし国士舘大学に入学していなかったら、僕らはどんな大人になっていただろう。そこに計りしれない苦痛があることをうすうす知りながら、なぜ僕らはその場所を選んだのだろう。(中略)卒業してから三十年以上経った今でも答えを見つけることはできないけれど、激流に呑まれ続ける時代の中で、ただひとつだけ確信めいたことを覚えるのだ。僕らはあの大学で、はじめて自己を確立した。肉体を通して心を鍛えたのだ。それはまさに体育であり、人生の真義である(P406)と総括する言葉を、思わず何度も読み返してしまう。
 あいにく勉学に励む姿は皆無でありながら、甘酸っぱい恋愛あり、熱い友情ありの青春小説は、理不尽だらけの社会を生き抜く自信を、私たちに与えてくれるようだ。

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