ベルリン、ロンドン、シカゴなど、世界の大都市で行われるビッグレースは、ワールドマラソンメジャーズ(WMM)とも呼ばれ、世界中のトップアスリートがしのぎを削る、権威と格式が高い大会だ。
なかでもボストンマラソンは伝統があり、優勝者は世界的な地位と名声を手に入れることができる一方で、好記録は期待できないことでも知られている。
レースのクライマックスに「心臓破りの丘」がそびえ立ち、しかもペースメーカーもつかない同大会では、世界記録の更新を願うことは愚かとしか言いようがない(P16) と関係者の間でささやかれているほどだ。
しかしその大会で、あるケニア人選手が、2011年に2時間03分02秒で優勝してしまう。大会記録を3分近く更新し、従来の世界記録を1分近く短縮する驚異的なタイムだったのだが、なんと公認コースとなる規定を充足しておらず、「幻の世界記録」として参考記録扱いとなってしまった。
よもやボストンほど歴史ある大会が公認されないという事実は驚きだが、起伏が多く、逆の意味での“参考記録”(P17) で叩きだした異次元の走りは、「マラソンで2時間を切る」という夢に現実味が帯びはじめ、マラソン高速化の流れを加速化させる契機となった「事件」であったとも言えよう。
本書はその男、ジョフリー・ムタイを中心に、東アフリカ勢が猛威をふるう近年のマラソンと今後の展望を浮き彫りにしようとする意欲的なノンフィクションで、特にケニアのカレンジン族が、世界でも突出した長距離ランニング能力を発揮している理由を、その生い立ちから、生活様式や激しいトレーニングに至るまで、丹念な取材によってあぶり出そうとしている。
たしかに近年、東アフリカ出身ランナーの存在感は圧倒的で、2014年のマラソン記録上位50人は、ケニア(27人)とエチオピア(23人)により独占されているというから驚きだ(P248より)。
その理由としては、遺伝的要因が強いと考えられているが、著者はムタイらの取材を通じて、環境的な要因も非常に強いと信じているようだ。 それを裏付けるエピソードとして、彼らの生活は非常に貧しく、政情が不安定な状況も紹介している。
たとえば、ケニア国内では、キクユ族とカレンジン族(いずれも優秀な長距離走者を輩出する地域として有名)が、2007年以降激しく対立し、上述のムタイも、九死に一生を得た経験すらしている。
彼らにとっては、走ることを道楽にするゆとりはない。プロのランナーになろうとするか、ほかの仕事に就くかの二択(P172) という環境のもと、生きる術として走らざるを得ないという話を聞いてしまうと、とても日本人が勝てそうにないと弱気にすらなってしまう。
ところで本書の特筆すべきは、非常に多くの研究者やアスリートを紹介し、マラソンというテーマから様々な切り口で論点を提供してくれる点にある。それはたとえば、遺伝はもちろん、ドーピングであったり、地政学であったり、スポーツエージェンシーであったりと、タイトルから想像するより遥かに多くの知見に満ちているのだ。
とりわけ私が興味をひかれたのが、ケニアのサムエル・ワンジルに関するエピソードだ。
オリンピック金メダルや、メジャー大会優勝により、同国では誰もがうらやむ成功者となった一方で、莫大な金を目当てに集まる人たちに苦しみ、生活が乱れ、破綻をきたしてしまう姿には心が痛む。
しかしそれもまた、本書が上質のノンフィクションである所以であろう。つまり、マラソンの歴史を学ぶことで、国際政治に興味を抱かせ、貧困という現実があるということにも気付かせてくれるのだから。
そんな意味では、マラソンファンならずとも、本書を読むことで様々な分野の教養を深めることができそうだ。
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