もう限界だ。これ以上スピードが上がらない。自己ベストの更新は今回もおあずけだ。
あきらめかけたその時に鳴ったラスト1周の鐘が、自分を奮い立たせてくれた。
どこにそんなエネルギーが残っていたのだろうか?
そんな経験を持つ長距離選手は少なくないはずだ。
そしてその多くが「(ラストであれだけ走れるのなら、中盤でペースを上げておけば、もっとタイムが良かったはずだ)」と悔やんでいる。
しかし、それがいかに難しいことなのかを教えてくれるのが、「限界」を科学的に探った本書だ。 では、持久系スポーツにおいて「限界」を定義する要素は一体なんなのだろうか?
「ランニング辞典」の著者でもあり、その道の権威として知られる南アフリカのティム・ノークスは、脳こそが耐久力を調整する「セントラル・ガバナー」であると考えている。
まず運動中に突きあたる限界は、筋肉の機能障害によるものではない。本当の機能停止に至らないように事前に限界を課しているのは脳だ (P72)と、脳には予測的制御機能があると語る。
長距離走競技の中盤にペースダウンし、その一方でラストスパートできるのは、経験不足や集中力の欠如ではなく、長時間の努力が必要な間は人を自制させ、危機が過ぎ去り、終わりが近づいた時にようやく最後の蓄えを放出させるのは脳にちがいない (P74)という説明にはうなずかされる。
そういえば、いわゆる「火事場の馬鹿力」と称されるが、動物は危機的状況に陥ると、普段では考えられない爆発的な力を発揮することがある。
つまり、我々には肉体の限界を引き出させないようなリミッターが備わっており、暑さや寒さ、疲労度合いによって無意識的に能力を調整されている、ということだ。
たとえば科学者のひとりは、限界を引き出すためには、身体的機能だけではなく、脳トレーニングこそ必要だと考え、単調なコンピューターゲームを長時間行い、精神的疲労を課したのちに走るトレーニングを行うことで、著者はその後のハーフマラソンで、安定したペースを保つことができたと、効果を実感している。
そして極めつけは、強制的にリミッターを外してしまえとばかりに、脳に直接電気ショックを与える実験だ。
経頭蓋直流電気刺激(tDCS)と呼ばれる手法を用い、電気ショックを与える「ヘッドホン」を着用したスキージャンパーや、バスケットボールチームの成績が躍進したそうだが、運動中の脳の活動を把握することは技術的に困難なため、著者が雑誌に投稿した記事によると、いちおうは本物の科学に基づいていて頭に"効くらしい" (P315)とあいまいな記述をせざるを得なかった。
ところで、男子マラソンでは、いよいよ2時間の壁が破られるのではないかという期待が出てきている。
その世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲ(ケニア)に、最高の条件を整えて2時間切りを達成させるというナイキ「Breaking2」プロジェクトには、著者も取材を許され、本書のテーマと絡んでその舞台裏ルポにも読みごたえがある。
決行された2017年5月6日は、ロジャー・バニスターが1マイル4分の壁を破った歴史的な日だったが、惜しくも2時間を切ることは叶わなかった(非公認ながら2時間00分25秒)。
だが、65年前まで1マイル4分の壁を破ることは、誰もが不可能だと考えていたはずだ。それが、バニスターが破って以降、堰を切ったかのように4分切りが生まれだした。
この事実は、「壁」は身体的機能の限界ではなく、我々が無意識に作り出していた心理的な限界だったことを物語っている。
著者は本書のなかで、筋肉、エネルギー、酸素、暑さと熱、のどの渇きなど、様々なテーマに沿って「限界」の正体を科学的に調べようとしている。
一方で、書籍の完成度の観点からは、巻末に参考文献一覧が欲しかった点に加え、文章は冗長な記述が多く感じられた点が残念だ。
追伸
本書出版後からわずか1か月後の2019年10月12日には、ナイキとは別の「INEOS 1:59 Challenge」プロジェクトチームのサポートにより、ついにキプチョゲが2時間を切った(非公認ながら1時間59分40秒)。
カーボンファイバープレートを3枚も使用した厚底シューズなどが物議をかもしたが、人類の限界は我々が思い込んでいる以上に可能性があることを証明してくれたようだ。 |