ケニアやエチオピアの東アフリカ諸国が席巻し、ランキング上位を占めるマラソン界において、「その他」諸国の存在は落ち込んでいく一方だ。
その証拠に、2013年当時の男子マラソン世界100傑のうち、アフリカ出身者以外はわずか六人のみ (P14)という圧倒的な優位性が見出されている。
彼らにはかなわない。
そんなため息まじりのぼやきが聞こえてきそうだが、著者はその六人のうち五人が日本人 (同)であるという事実に気が付いてしまう。
いや、マラソンだけではない。
YouTubeに投稿されていた「上尾シティハーフマラソン」では、100位だった学生のタイムが1時間04秒49秒と、2013年のイギリス第八位に相当する記録 (P15)だというから驚きだ。
日本では何かが起きている (P13)
ランニングをこよなく愛するイギリスのジャーナリストである著者は、いてもたってもいられず、家族を連れて日本を訪れてしまう。
英国時代の知人・マックスが京都に居を構えているとはいえ、陸上関係に人脈があるわけでもなく、日本語も話せない。
買い物すらままならず、子どもたちは学校で異国人扱いされる心細い環境のなかで、マックスの紹介で懇意になった高尾憲司(立命館大学男子陸上競技部長距離コーチ)を核に、手当たり次第に陸上関係者へコンタクトをとっていく。
そこで著者が気付いた日本のユニークなイベントが「駅伝」だ。
まず好奇心をそそられるのは、日本では長距離走が「観るスポーツ」として非常に高い人気を誇るという点だ (P64)と、長距離走が文化として日本に根付いている点に注目し、個人戦ではなくチーム戦である駅伝の存在こそが、日本長距離界のすそ野を広げている要因であると確信する。
それはおそらく、世界でもっとも観戦者の多いロードレース (P67)である箱根駅伝や、会社対抗のニューイヤー駅伝というユニークなシステムが整っているからに他ならない。
たしかに恵まれた環境が日本にはある。しかし著者には納得できない点が残ったままだ。
たとえば上述のハーフマラソンを例に、そう、日本には優れた選手が大勢いる。しかし突き詰めて考えてみると、なぜもっと優秀な選手が出てこないのかという疑問が生まれてくる。世界でも類を見ないほど高度な育成システムを持ちながら、(中略)優勝者の記録は世界レベルとはほど遠いものだ (P328)と評し、すそ野の広がりとトップレベルの強化が両立されていない点に強い疑問を呈している。
母国をはじめ、ケニアやエチオピアであっても、走ることで生活できる選手はほんの一握りに過ぎない。
選手の多くは大学で競技の第一線を離れるが、日本では駅伝が社会的に認知されていているがゆえに、いちばん鈍足の実業団ランナーでさえも、一般的な会社員と同じ給料を稼ぐことができる (P75)と、世界レベルに達していないながら安穏としている実業団を痛烈に批判している。
最後まであきらめない。
チームのために限界まで追い込む。
日本の文化として愛される要素が駅伝には凝縮されている。
なるほど、島国から一歩離れた視点から自分たちの文化を眺めてみると、たしかに駅伝は日本人にしか真に理解できない情緒的要素が多分に含まれたイベントなのかもしれない。
いくつかの実業団を体当たりで取材した著者によると、ある実業団では、ケニア出身選手を招きながら、ケニア人が速すぎるから (P236)という理由で、トレーニングは日本人選手とは全く別という不可解な現実も紹介している。
世界トップレベルの選手とトレーニングする絶好の機会に恵まれながら、なぜ日本人選手はケニア人を見習い、真似しようとしないのだろう? (P237)と感じるのは著者だけではないだろう。
このエピソードはいみじくも、外国籍の「チームメイト」は駅伝で勝つための「助っ人」に過ぎないことを証明しているかのようだ。
それはつまり、世界で勝つ、というよりは「ニューイヤー駅伝」で上位に入り企業のPRを行うことが優先してしまっているのではないだろうか。
なるほど、「不思議の国のニッポン」がなぜ世界で通用しないのか、というヒントを本書からもらったようだ。
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