「世界最速の男」
「異次元の走り」
彼を形容する言葉は枚挙にいとまがない。
時には「ビッグマウス」と揶揄されることも耳にするが、常に結果を出し続け、次は一体どんなことをしでかしてくれるのだろう、とワクワクさせてくれる。こんなアスリートは、彼をおいて他にはいないだろう。
そんな現役バリバリのスーパーアスリートが、自伝を出版したという。
しかも400ページ弱という堂々たる体躯の単行本だ。一体どこにそのような時間があったのだろうかと訝ってしまうのだが、当初抱いていた憶測に反し、自らの生い立ちから世界の頂点に立つまで、そして頂点に立ち続けるプレッシャーに悩まされる姿が素直に語られていて、スタジアムで見る奔放な姿からは想像もできないチャンピオンの苦悩を垣間見ることができる。
ウサイン・ボルトは、陸上競技の世界において間違いなく規格外の超人だが、その半生もまた規格外に面白い。
練習嫌いを公言しながら、「チャンプス」で勝利し、弱冠15歳で世界ジュニア選手権の200mを制覇して以降は、国民の期待を一身に背負ってきた。
これがシンデレラストーリーの始まりなのだが、彼にとってはジャマイカ期待の新星になったことより、有名になったことで女性からモテモテになったことの方が「成功の証」だったのかもしれない。
それまで異性に対してはナイーブなところがあった (P88)が、突如として俺は目覚めた (P89)ことを明かし、遊びまくっていた時期をあけっぴろげに語っている。
ちなみに、この頃には一度だけマリファナを試したこともあると告白していて、こんなことまで書いて大丈夫だろうかと、読んでいるこちらが心配になるくらいに、自らを飾らずにさらけ出している。
一方、ウサイン・ボルトが伝説的スプリンターとして知らしめている所以は、得意な200mではなく、100mで超人的な走りを見せたことだろう。
身長が高く、スタートで不利な状況であることが分かっていたにも関わらず、なぜあえて100mに挑戦したのかが本書で語られていて、思わず吹き出してしまいそうになる。
成功すれば、莫大な金と名誉を手に入れることができる。もちろんそれも捨てがたい動機のはずだが、真の理由たるや、(苦痛を伴う)400メートルを走るのが嫌だったからだ (P167)というところが実に彼らしい。
だが我々はそのおかげで異次元の走りを目の当たりにし、そして人類の可能性についても大いに考えさせられた。
そう、彼は紛れもなく「生きるレジェンド」だ。
それだけに、数年前に交通事故で大惨事を引き起こし、奇跡的にほぼ無傷で済んだというニュースを聞いた時は、神がかり的な強運を感じずにはいられなかった(もちろんこのあたりのエピソードも本書に詳しい)。
本書は、ウサイン・ボルトという希代のアスリートを題材にした伝記というだけにとどまらず、ドーピングを疑われ、何度となく抜き打ち検査を受けなければならない現実(プライバシーは無いに等しいようだ)や、ただ一直線を走るだけのように見える100m走が、実は緻密な戦略を要求される芸術的な競技であるということも教えてくれる良書で、陸上競技アスリートならば必見の一冊だ。
本書を手にした当初は、どうせゴーストライナーによる、世界選手権前の話題作りに過ぎないだろうと思っていたが、読みだしたら止まらなくなり、喜怒哀楽を隠そうとしない彼の素直な性格が徐々にいとおしくなってきた。
自由奔放で、茶目っ気たっぷりの憎めないキャラだというのに、トラックの上では憎らしいほど圧倒的な存在感。
いかん! これでは出版社とTBSの思うつぼなのだと分かってはいるものの、今夏の世界選手権では彼の一挙手一投足からますます目が離せなくなってしまいそうだ。
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