またぞろ、マニアックなものを出してきた、などと思うなかれ。 このウェブサイトでは基本的に単行本を中心に紹介しているのであり、普段は読まない文学専門誌を紹介することには、若干のためらいがあったのだが、収録作品とはいえ、良質文学を放っておいてしまうことのほうが、よほどためらわれてしまった。 しかも、対象としている人物は、これまで表立って書籍化されることのなかった(多分)、伝説のマラソンランナー・森下広一なのだから。
森下広一と言えば、瀬古や中山に次ぐ、男子マラソン界の次代のエースとして期待され、24歳の若さでバルセロナオリンピック・男子マラソン銀メダルを獲得した天才ランナーだ。 しかし、オリンピック後は深いスランプに陥り、その後は一度もフルマラソンのスタートラインに立つことがなく、弱冠29歳でひっそりと引退した短命のランナーでもあった。 そんな彼が、昨年再び脚光を浴びる機会があった。 それは、北京オリンピックの男子マラソン。教え子だった、ケニア出身のサムエル・ワンジルが高速レースを制し、師が成し遂げられなかった金メダルを獲得した後のことだった。 彼は、選手として叶わなかった夢を、指導者として叶えようとしていたのだろうか?
バルセロナオリンピックでの銀メダルは、日本陸上競技史に燦然と輝く快挙ではあったが、森下は調整の失敗を悔やみ、宗兄弟からも「おめでとう」と祝福されることはなかったという。 だからこそ、次のアトランタオリンピックに懸ける思いは並々ならぬものがあったはずだったのに、かつての輝きを取り戻すことは叶わなかった。 本作品は、すでに「過去の人」として忘れ去られている森下の生涯を振り返り、特にオリンピック後のスランプから、指導者に転身した現在に至る過程を深く描き、知られざる天才の苦悩を暴きだしている。
短編作品であるため、森下の全生涯を丹念に描いているわけではないのだが、だからこそ、栄光から失意へ至る、光と影のコントラストがくっきりと浮き彫りにされている。 練習でも決して妥協することなく、自分をストイックに追い詰めていった彼だからこそ、中途半端なレースが出来なかったのかもしれない。 そんな彼が育てたワンジルが、「モリシタから我慢することを教わった」と称されるのは、皮肉なようにも聞こえてしまう。 若さゆえに不器用だった彼が、指導者となって発見した大切な何かが、本作品に隠されている気がする。 もしかしたら、日本の男子マラソンが復活する時期は、そう遠くないのかもしれない。
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