1964年の東京オリンピックを覚えている日本人にとって、最も印象的なシーンを挙げてもらうと、どの種目になるだろうか?
東洋の魔女と恐れられた女子バレーボールだろうか?
黒い弾丸と称されたボブ・ヘイズが躍動した陸上・100mだろうか?
マラソンマニアである私のひいき目かもしれないが、数ある名シーンの中でも、マラソンほどこの大会で日本中の関心を集め、同大会を象徴する種目はなかったのではないだろうか?
イギリスのベイジル・ヒートリーと円谷幸吉との激しいトラック勝負。
そして陸上日本チームとして戦後初の日の丸掲揚に沸いたことだけではない。
それは、彼らの遥か先を行き、金メダルを獲得したこの男の圧倒的な走りに衝撃を受けたからに他ならない。
日本から遠く離れたアフリカ出身の人物で、アベベ・ビキラほど日本人に広く知られた人物は少ないだろう。
「裸足のランナー」「哲人」「神の申し子」など、彼を称するニックネームには枚挙に暇がない。
タイトルに用いられている「マスカルの花」とは、エチオピアではキリスト教に由来する特別な意味を持つ花だそうで、英雄である彼を称するにピッタリのタイトルだろう。
本書はそんな伝説のランナーを新聞記者の立場から丹念に追い、彼の死後わずか1年後に刊行された貴重な作品で、栄光と失意に至る生涯を丁寧にまとめている。
彼の出身地・エチオピアといえば、いまでこそ世界を席巻する長距離王国だが、当時は国際大会で全く注目されない小国に過ぎなかった。
それが一変したのが、1960年のローマオリンピック。
イタリアの植民地だった苦い歴史を持つエチオピアにとって、旧宗主国ともいえる地でのオリンピック金メダルは、だれも予想できなかったことだという。
当時はいつ、どこで、どんなことをやってきた選手なのか、さっぱりわからない。"黒い大陸"からハダシでやってきて、ツムジ風のように金メダルを奪い去った男 (P24)と評され、一夜にして英雄が誕生した。
まるで戦争に勝ったかのような偉業を達成したその男こそ、アベベ・ビキラに他ならない。
本書は、スウェーデンの陸軍将校だったオンニ・ニスカネンが、エチオピアでスポーツの普及に尽力するなかで出会った「ダイヤの原石」を磨き、世界一の輝きを誇るまでに至る過程がコンパクトに描かれている。
ローマ、東京とオリンピックを二連覇し、マラソン強国・エチオピアの礎を築いた英雄はしかし、交通事故で下半身不随の半生を余儀なくされる。
わたしたちが知る裸足のランナー・アベベの姿は見られないものの、その後はパラリンピックにも出場し三個目の金メダル (P156)を得るなど、生涯スポーツの発展にも寄与していたという。
著者が愛したそんな鉄人も、わずか41歳で世を去った。
そういえばつい先日にも、ヒートリーの訃報を知らされた(2019/8/5付・日本経済新聞)。
悲しいことだが、歴史は大きく動いている。だからこそ、次代を担うヒーローの活躍を、次の東京オリンピックで見てみたい。
マスカルの花道の奥で、彼もそう願っているに違いない。
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