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KINUEは走る
−忘れられた孤独のメダリスト−

KINUEは走る
著者 小原敏彦
出版社 健康ジャーナル社
出版年月 2007年8月
価格 \1,600(税別)
入手場所 紀伊国屋書店
書評掲載 2010年7月
★★★★★

 有森裕子がバルセロナオリンピックにおいて、陸上競技女子種目では戦後初めてとなるメダルを獲得した日からさかのぼること、ちょうど64年前。一人の女性アスリートが日本人女性として初めてオリンピックの表彰台に立っていた。
 力強く躍動する姿で世界中を驚かせたその人は、今もプラハ(チェコ)の国立墓地にある記念碑にその名が刻まれているという。
 本書は、たったひとりで世界に挑み、日本女子スポーツの歴史を築き、24歳の若さで逝った不世出のアスリート・「人見絹枝」の生涯を、貴重な資料や証言をたどりながら描いている。

 本書を読んで、まず驚かされるのは、彼女の天才的な身体能力の高さだ。
 巻末の資料によると、50m走の世界タイ記録を始め、60m、100m、200m、400m、走り幅跳び、立ち幅跳び、三段跳び、三種競技(100m、走り高跳び、やり投げ)で世界記録を作るなど、たぐいまれなる超人アスリートであったことが分かる。
 しかし、それほどの好記録を作り、国民の期待を一身に背負って迎えた、アムステルダムオリンピックでは、なんと得意の100m走で決勝に残ることができなかった。
 「このままでは日本に帰れない(P133)」と、未経験の800m走への出場を直訴するのだが、その悲痛な心境が彼女の日記にはこう綴られている。
 「あれほど苦労して期待した100メートルに敗れました。残るのは明日の800メートル決勝だけです。私にどうか運を与えてください。たった1回だけで結構です。800メートルに私の持てる力全部を賭けて走らせてください。後はどうなってもかまいません(P4)」。
 決勝はまさにその言葉通り、「死の激走」と称されるほど凄惨なレースとなり、次回のロサンゼルスオリンピックからしばらく同種目が競技から外されたほどだったという。

 一方で、人見絹枝のアスリートとしての戦績は、かくの如く現代に語り継がれているが、彼女の成し遂げてきた功績はそれだけではない。
 おそらく、「女性とスポーツ」というテーマを考えるうえで、日本人としてのパイオニアである彼女を知らずして論じることはできないのではないだろうか。
 彼女が生きた時代は、「女は家にあって内を守り、子供を育てあげ、家風に対しては何よりも温順貞淑であることが求められていた時代(P32)」で、女性が人前で太ももをさらすことは恥ずべき行為と考えられていた頃だ。
 著者は、今では考えられない、そんな封建的な時代背景を丁寧に描きだしている。いや、むしろそれを説明しなければ、彼女の成し遂げてきた功績は過小に評価されてしまうかもしれない。
 それほどまでに彼女は社会の偏見に悩まされ、それでもいち早く国際的感覚を日本に導入し、女性がスポーツで活躍する環境を作り出そうとした情熱が、痛いほどに伝わってくる。

 そういえば、彼女の導入した国際的感覚を示す、印象的なエピソードがひとつある。
 高校野球で有名な、開会式でのプラカードを掲げての行進は、今では甲子園の風物詩としておなじみの光景だが、この入場行進や、勝利校の校旗掲揚、校歌斉唱は、絹枝自らがアムステルダムで体験した感激をもとに発案したものだという(P158より)。
 アスリートとしてだけではなく、新聞社に勤めるジャーナリストとして、世界の見聞を広めようと尽力した彼女の聡明さを、現代に伝えるエピソードと言えるだろう。

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